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福島地方裁判所平支部 昭和26年(わ)259号 判決

本籍 福島県平市大字中神谷字南鳥沼七番地

住居 同県内郷市宮町代百四十五番地

無職 鈴木光雄

大正十四年三月二十一日生

右の者に対する騒擾、職務強要被告事件について、当裁判所は次のとおり判決する。

出席検察官高橋嘉門。

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実の要旨は、

『福島県平市警察署長本田正治は、昭和二十四年四月十三日平市大町十八番地長江久雄当二十三年申請に係る平市田町国鉄貨物取扱所前に七月二十日迄の期限を付して掲示板設置の為道路一時使用の許可を与えた処、共産党石城地区委員が該掲示板に官憲の民衆に対する不当弾圧、其の他の文書図画等の掲示をなし、一般民衆がこれを閲覧する為常時相当交通妨害の事実があつたので六月二十五日右長江久雄に対し右掲示板の存在することが交通妨害と云う理由のもとにその撤去方の告知をなした。然るに同人は一旦許可になつたのであるから承知出来ないと云う事で、同署長は改めて右許可の取消及六月二十七日午後五時迄撤去方の通告書を出した処、該書面は何者かによつて同署に投げ込まれ返戻された。そこで同署長は同地区委員会の幹部で朝鮮人連盟(以下朝連と略称す)役員である金明福を招致してその撤去方をうながした処、同人は地区委員会としてはこれに応じがたいと思うが市署長の要求は機関にはかると云つて立去つた。

同署長は同月二十七日になつても同委員会からは何の回答もなく、撤去する様子も認められないので実力を以て撤去する考えで代執行令状を石城地区委員長鈴木光雄に交付しようとしたが拒否された。同日午後三時頃右鈴木光雄及党石城地区委員鈴木磐夫両名は同署長に面会し、掲示板の撤去を命ずることは共産党に対する弾圧であると指摘して退去した。其の後間もなく地区委員等約五十名が同署に押しかけ署長の許可取消の撤回方を迫まり、この対談中同志の者は続いて同署前に集り気勢をあげ不穏の情勢となつた。同署長としては同日隣接の内郷町矢郷炭砿の労働争議が悪化し労組と反共派の自由同志会が対立し一触即発の情勢にあり、これが警備の為平地区署平市署湯本町署等の署員が内郷町署に待機して居た状況もあり、平市署の危険を感じて同日午後四時半頃これが警備の為平地区署湯本内郷の各署より警備応援を求め平地区署に待機せしめた。併し同署長としては掲示板撤去問題で右の群衆を必要以上に剌戟し事態を悪化させる事は得策ではないことを考え、同日右掲示板撤去の代執行を断念してこれを他に移転することの右地区委員会の要請を容れて一応右事態を収拾し、右地区委員等は一旦交渉を打切り、同日午後七時半頃全員退去した。六月二十八日は地区委員会側は市内各所に警察を非難したビラを貼付し宣伝啓蒙に終始し、他方矢郷炭砿労組及地区委員会朝鮮連盟等の百五十名は内郷署に押掛け警察は吾々の争議に手を出すなと牽制し、又労組党員朝鮮連盟約四十名が派出所に押掛けて同様な事を云つて牽制し不穏の気勢を示したが事無きを得た。それで平市署長は翌二十九日午前九時頃前示鈴木光雄、金明福両名を招致して三十日午後四時迄右掲示板を撤去しなければ代執行する旨申し渡し、両名は適当な場所を見つけて移転すると申し、同十一時半頃退去した。六月三十日午前十時頃地区委員会々員朝連員等約八十名は湯本町警察署に押掛け同署長に面会を強請し、署長代理として応対した巡査部長渡辺清憲に対し労働者を弾圧して斗うつもりか早く回答しろ、愚図愚図して居る野郎だ担ぎ出せ、今日平の掲示問題で応援を出すか出さぬか責任を以て回答しろと強要した上、同部長を玄関前に引出しスクラムを組んで取囲む等の脅迫暴行を為し、同日午後二時頃共産党員労働者約百名は内郷町警察署に押掛け同署長に対し、

今日平市署に応援を出すか出さぬと誓約しろ、誓約丈けでは駄目だ一札を書け、書けぬならば武装解除しろ、拳銃と警棒を此処に集めろ、誓約を書けぬなら制服を脱いで直ぐ罷めろ、

等怒号し卓を叩いて詰め寄る等背後の騒擾気勢と呼応して脅迫強要し、或は同署勤務巡査部長古口定吉を同署玄関前に拉致し約四十名の多衆で取囲み殺してしまえ、袋叩きにしろ等と怒号しながら胸倉を締め上げ突き飛ばし、蹴飛ばす等の暴行を加え、或はこの状況を同署二階から撮影した巡査中塚四雄に対しては突き倒し殴打する等の暴行を加えて傷害を与え巡査部長三瓶良助からはフイルムを奪取する等何れも暴行脅迫を加えて右両署員を夫々の部署に釘付にした。同日午前十時頃石城地区委員会の西岡敬三郎外二名は平市署長に面会し、同日午後四時迄に掲示板を撤去することは出来ないからその要求を取消せと抗議し、更に同日午後一時頃前示鈴木光雄、金明福は平市署長に面会し、署長が飽く迄掲示板撤去を固執するならばこれによつて生ずる結果については吾々に責任はない、警察側で責任を負うべきものと申し退去した。併し間もなく金明福は同署長に面会し、署長の掲示板移転要求を撤回せよと執拗に抗議し、同署長は其の申出を拒否したので同人は暗に実力を行使する様な口吻を洩して退去した。右金明福が立去つて間もない同日午後三時半頃平市田町料理店大貞方方面より平市警察署に向つて赤旗を掲げインターナショナル等を合唱し乍ら行進して来た労組地区委員等のデモ行進の一隊が平市署玄関前に迫り侵入せんとしたので、署長はそれに対処する積りで署員約三十名を玄関其の他に配置し、代表者其の他の署内に侵入することを阻止せしめた処、右デモ行進の外に平駅方面よりトラツクに依り乗込んで来た一隊、更に同方面よりスクラムを組んで行進して来た一隊、其の他地区署前朝連事務所より来た一隊、その数三百名は、玄関口で署員の懸命の阻止も肯んぜず署内に侵入した利川鎮吾を住居侵入罪により検挙せらるるやここに警察職員と尚も署内に侵入せんとする共産党員等が衝突し、右暴徒は戸外より石を投げ玄関のガラス戸を破壊し、之れが警備の指揮者司法主任警部補金田功外警察職員十三名を棒杭等にて殴打、投石により重軽傷を負わせ一挙に署内に乱入し階下事務室署長室を占拠し、特に署長室には約百名が署長を包囲し、その内の代表者鈴木光雄、金逢琴、金明福、西岡敬三郎、鈴木磐夫、日野定利、熊田豊次等は同署長に対し多衆の威力を示して斯うした事故が起きたのは署長の責任だ署長を罷めろ、湯本、内郷署に応援警察官を動かした理由如何、矢郷炭砿の坑夫が死んだのは署長が殺したも同然で殺人幇助だ等脅迫し罵詈雑言を浴びせかけ、又右暴徒の内平子正孝等一隊は留置場に侵入し看守巡査織井安吉の十四年式拳銃(実砲四発)を奪取し、第四房の南京施錠の金具を引拔き同房留置中の前示署内に不法侵入現行犯の利川鎮吾を開放し、その監房の中に織井巡査を監禁し、又暴徒は同署正面玄関に人民政府の警察署なれりと呼号し赤旗二本を交叉してかかげ署内に於て赤旗を振り、又はインターナショナル等を高唱する等同日午後三時半頃より同日午後十一時三十分頃迄の退散迄多衆聚合して暴行又は脅迫し同警察署を不法に占拠し、其の間平市内長橋町尼子橋の袖其の他の要所に棍棒を携帯した見張員を配置し、警察に対する応援防止にあたらせ警察機能を完全に喪失せしめ、同署及附近一帯の静謐を攪乱し以て騒擾したものであるが、

右騒擾に際し、被告人は前記掲示板撤去問題に関し昭和二十四年六月二十七日から平市警察署長と種々交渉を継続していたところ、

第一、前記掲示板撤去問題に関し共産党員をはじめ各労働組合員、朝鮮連盟員を動員結集して平市警察署に迫り、多衆の威力を以て同地区委員会主張の趣旨を貫徹しようと意図し、昭和二十四年六月二十九日午後十時頃、平市大町十八番地所在日本共産党石城地区委員会事務所に於て長江久雄、金明福、清野常雄外数名の者と協議の上、翌三十日午後三時頃迄平市警察署前に多数の党員を集合させる為めに、その連絡方法について打合せをなし小名浜方面、植田方面、湯本内郷方面の各群委員会に対する連絡担当者を定め、此等の者をして連絡通報せしめて同志の糾合を図り、

更に同月三十日午後二時頃平市十五丁目五番地所在朝連浜通支部事務所に於て金逢琴、村上俊雄外十数名の同志と共に平市警察署に押掛けることを協議した際、群衆統制の為め交渉員共産党朝連の各分会責任者を選定した上、同所に集合した共産党員、労働組合員、朝鮮連盟員等約百五十名に対し、これから掲示板撤去問題に関し平市警察署に団体交渉をなすべき旨、及び吉田内閣の反動政策に対する攻撃等を内容とする演説をなして群衆の闘争意慾を昂揚し、

次いで同日午後四時頃、平市警察署に赴き同署玄関前に押掛けていた数百名の群衆に対し、矢郷炭砿馘首問題これに対する平市警察署の不法弾圧問題、前記掲示板問題に関する交渉経過、吉田内閣反動政策に対する攻撃及び共産党へ入党勧告等を内容とするアジ演説を行つて更に群衆の闘争意慾を昂揚し、

其の頃から同日午後十一時半頃迄の間、同署署長室内及び二階別室に於て背後の騒擾と相呼応して鈴木磐夫外数名の交渉員の主導者として平市警察署長本田正治及び平市公安委員等に対し、他の交渉員と共に多衆の威力を示して交々暴言及び脅迫的言辞を弄し、応ぜざれば危害をも加え兼ねまじき気勢を示し、以て掲示板撤去命令の撤回、本件乱闘に伴う群衆負傷者に対する慰藉料の支払、本件責任者たる本田署長の即時引責辞職及び解職等を強要し、尚其の間同日午後六時頃平市警察署前に集合していた群衆数百名を平市警察署長の意に反して故なく署内に乱入せしめて同庁舎を占拠せしめ、

同日午後十一時頃他署から警察隊の来援する情勢を察知するや、同署内に乱入していた数百名の群衆を同署玄関前に集合整列せしめて即時解散引揚方を指示し、

以て右騒擾につき全般の主導的指揮活動の任に当り首魁となり、

第二、右交渉中同日午後八時三十分頃前記利川鎮吾が住居侵入罪により現行犯人として同署留置場に拘束せられたことを聞知するや、同人を釈放させる目的を以て平市警察署長本田正治に対し、前同様多衆の威力を示して脅迫を加え以て右利川鎮吾の即時釈放方を強要し

たものである。』

というのである。

よつて先ず本件騒擾罪の成否について検討する。

第一、事件の梗概

一、掲示板撤去問題の経緯

平市大町十八番地に事務所を有する日本共産党石城地区委員会は、党活動の宣伝に資するため党員長江久雄の名義で、昭和二十四年四月十三日附書面を以て平市警察署長に対し、平市田町国鉄貨物扱所前の県道上に壁新聞(掲示板)設置のため、道路(巾一尺、長さ一間半)の一時使用の許可を申請し、同月十五日に同年七月二十日までの期間でその許可をうけた。(証人本田正治、同柳田藤雄、同伊藤徳雄の証言、被告人鈴木光雄、同長江久雄の供述、証第三号道路一時使用願及び許可書)(右証言及び供述とあるは当公判廷における証言及び供述を指し、被告人が右証言又は供述に立会わなかつた関係のものについては、公判調書中の当該供述記載部分を指称するものとする。以下之に同じ)

その結果右地区委員会では、その道路上に、巾約八尺、高さ一間余の掲示板を設置し、石城地方における時事問題を取り上げ報道したため世人の関心をひき、道路上にはそれを見る人によつて相当な人だかりがあつた。

平市警察署は、同年六月初頃からこの状況について関心を払つていたが、同月二十五日に本田平市警察署長は右の掲示板が存在することは交通上支障があるという理由の下に右地区委員会に対して口頭を以て、更に名義人長江久雄に対して文書を以て、さきになした許可を取消す旨及び速かに右掲示板を撤去するよう通告した。

これに対し地区委員会は、共産党の政治活動を妨害するものであり応じられないという態度に出たため、本田署長は同日午後五時頃、共産党員であり在日朝鮮人連盟浜通支部の幹部である金明福を平市警察署に招致してその斡旋方を依頼した。(証人本田正治、同柳田藤雄、同杉森勘治、同清野常雄、同岡田馨、同村上哲夫、同山田学の各証言、証第二十二号写真、証第五号道路一時使用許可取消通知書、福島地方裁判所が昭和二十四年十一月十二日徐万甲外四十六名についてなした検証調書)

しかるにその後、金明福又は地区委員会から何等の応答なく情勢の進展をみなかつたため、本田署長は実力を以てこれを撤去する方策を立て、同月二十七日正午過頃右地区委員会に対し、代執行令書を以て右掲示板を撤去しないときは同日午後五時に警察側において代執行する旨を通告した。同日午後三時三十分頃右地区委員長鈴木光雄及び鈴木磐夫の両名は平市警察署に赴き本田署長に対し、右は共産党の政治活動に対する弾圧であるから応じられないと抗議して交渉中、約七・八十名の労働者が同署前に集り労働歌をうたつて気勢を上げ、その内三・四十名は署長室に立ち入り交々発言する状態になつたため、本田署長は群衆の代表者を五名、立会人を三名と制限し、その他の者の退去を求め、これを退去させた上交渉を続けた結果、同日午後七時頃地区委員会が適当な場所を見つけ速に移転する、移転場所については署長と地区委員長が相談の上決定するということで右交渉は妥結を見るに至つた。(証人本田正治、同橋本岩夫、同伊藤徳雄、同柳田藤雄、同小林清、同桑島茂光の各証言、被告人鈴木光雄の供述、証第四号代執行令書)

次で翌々二十九日午前十時頃本田署長は、地区委員会の代表者の来署を求め、そのため同署に来た鈴木光雄、金明福の両名と掲示板の移転場所について相談し、更に右両名及び同署伊藤次席が現地について調査した結果、平駅前住吉屋支店の県道に面する空地が移転場所として適当と考え右両名が同支店主人酒井清一とその借用について交渉し、明朝其の返事が得られることになつたため、金明福は同日正午頃本田署長にその経過を報告するために同署に赴いた。

その際本田署長は、金明福の報告及び伊藤次席の復命に基いてその土地が借りられるであろうとの見通しを立て移転を促進するためとして金明福に対し、明三十日午後四時までに前記掲示板を撤去するように命じ若し撤去しないときは警察側で強制撤去する旨を告げたため、金明福はこれに抗議したが容れられず、更に土地が借りられなくとも撤去すべきことを命ぜられたため同人は納得しないで立去つた。更に午後一時頃鈴木光雄は同署に赴き本田署長に対し右の命令はさきの協定に違背する不当なものであるとして強硬に抗議し、右命令の撤回を求めたが容れられず午後三時頃立去つた。(証人本田正治、同伊藤徳雄、同酒井清一の各証言、被告人鈴木光雄、同金明福の供述)

その後地区委員会は、同二十九日夜前記住吉屋支店主人酒井清一に対し撤去命令が出た事情を話し土地借用方を折衝し、更に翌三十日朝同人にその返答を求めたが確答を得られなかつたため、同日午前十時頃及び午後零時過頃の二回に亘り金明福、西岡慶三郎等を平市警察署に派遣し本田署長に対し前記撤去命令の取消或いは撤去期限の延期方を要請し、殊に午後の交渉の際には公安委員の来署を求め、公安委員長山崎与三郎、同委員猪狩庄平の斡旋によつて解決を図つたがその要請はいずれも署長によつて拒否されたため、金明福等は午後三時過頃同署を退去した。(証人酒井清一、同本田正治、同伊藤徳雄、同柳田藤雄、同山崎与三郎、同西岡慶三郎、同桑島茂光の各証言、被告人鈴木光雄の供述)

二、警察署並びに地区委員会の動きについて

本田署長は、隣接警察署の応援を得て三十日午後四時を期して掲示板を強制的に撤去する意図の下に、二十九日夕刻湯本町警察署に、橋本平地区警察署長、菅家湯本町警察署長、塩谷内郷町警察署長の参集を求めその協力方を要請して協議したが、湯本・内郷両署においては、当日は常盤炭砿において労使間に労働協約改訂について団体交渉が行われることになつており、又矢郷炭砿争議に関する問題等管内における労働情勢に照らして、平市警察署に対し応援を派遣することは困難であり、かつ、国警県本部から応援警察官を得ることも県内各地における諸種の事情から至難であるとの結論に達したため、本田署長は三十日午後四時を期して掲示板を強制的に撤去しようという当初の方針を改め、穏密裡に夜間にでもこれを撤去することによつてその目的を達しようとする考えを持つに至つた。しかし従来の経過等に徴しこの問題について多数の者が交渉に押しかけて来ることを予期したため、三十日朝全署員約四十名を集めて之に対処する心構えについて訓示を与えた後、多数の者が押しかけた際は代表三名に限定し、それ以外の者が署内に入ることを阻止するため、玄関口、裏口等の警備のため署員の編成をなし、同日午後三時過頃前記のごとく金明福等が同署を退去した後多勢の者が同署に向つたとの情報に基いて、玄関口に金田警部補以下十二・三名、裏口に車田警部補以下十二・三名を配置し、又情報連絡並びに署内警備に柳田警部補以下の署員を当らせた。(証人本田正治、同橋本岩夫、同塩谷重蔵、同菅家徳寿、同伊藤徳雄、同金田功、同車田喜雄、同柳田藤雄の各証言)

他方地区委員会は、二十九日夜同事務所に委員長鈴木光雄等数名が集り対策について協議した結果、多衆を動員して平市警察署に押しかける方策を建て三十日早朝から同志の糾合を図つた。(その詳細は後記謀議計画の項において判示する。)

三、湯本町警察署及び内郷町警察署に群衆が押しかけた状況について

右地区委員会の連絡に基いて平市警察署に赴くに先立つて、湯本町方面の共産党員等約百名は、平市警察署に対する応援警察官の派遣を阻止する意図の下に同月三十日午前十時三十分頃湯本町警察署に押かけ署前において労働歌を合唱する一方その内約十名は、署長に面会を求めその代理として応待した巡査部長渡辺清憲に対し、今日平に応援に行くか行かないか、他所に応援に行くべきでない。表に皆が集つているから表に出て回答しろ、此奴を表にかつぎ出せ等と罵声を浴せながら回答を求め、そのため署前に立ち出でた同部長をスクラムを組んで取り囲む等の行為をなしたが、同部長から現在は応援に行つていない又これから行くこともない旨の言明を得て午後零時三十分頃同署を立去つた。(証人渡辺清憲、同菅家徳寿、同木村進一、同服部梅雄の各証言、小宮薫の検察官に対する昭和二十四年七月十六日、同月二十日附供述調書、佐藤多美夫の同年八月一日附第一回同上調書、西原新七の同年七月三十日附同上調書、朴重根の同年七月二十六日附同上調書)

又同日午後二時頃内郷町方面の共産党員及び多数の矢郷炭砿従業員を含む約百名は、前同様の意図の下に内郷町警察署に押しかけ日野定利、鈴木磐夫、松木佐吉、佐々木贇、熊田豊次等約三十名は、署長室で同署長塩谷重蔵に対し、どうして労働者を弾圧するのか、今日署員を集めたのはどういうわけか、平に応援を出すためだろう、応援を出さないと約束しろと迫り、同署長が今のところ応援を出す考えはないと答えたところ、群衆中から署長は前にも約束を破つたから一筆書いて貰つたらどうか、と言つた者があつたため更に同署長に対し、交々口約束だけではだめだ、一札書け、どうしても書けないのか、書け、書けないなら武装解除するから拳銃と警棒を此処に集めろ、書けぬなら署長をやめろ、などと怒号し、拳で卓子を叩くなど執拗に誓約書を書くことを強要したが、その際数名の者は同署二階会議室に居つた巡査部長古口定吉を署長室に連行し、署長室においてその従来の言動について難詰した上更に同人を同署玄関前の広場に引出し、これを取囲んだ二・三十名の者は、労働者を弾圧した悪い野郎だ、労働者に謝まれ、と叫び同部長の胸倉をとり突飛ばし或いは蹴る等の暴行を加えながら、矢郷炭砿争議の際の犠牲者に対する謝罪を要求し、又巡査中塚四雄がこの状況を二階から写真に撮影したことから二・三十名の者は同署二階に上り込み、写真を寄越せ、フイルムを寄越せ、と怒鳴りながら、同巡査を取囲み、或いは同巡査を押し飛ばし、或いは蹴りつけるなどの暴行をなし因つて同巡査の左下腿部に全治十日を要する傷害を与え、又階下暗室で巡査部長三瓶良助からフイルムを奪取する等の行為を為した上午後三時頃同署を立ち去つた。(証人塩谷重蔵、同平田直男、同古口定吉、同中塚四雄、同三瓶良助、同藤田義男、同斉藤登、同東務、同佐藤慶助の各証言、医師斎藤秀樹作成の中塚四雄に対する診断書、菅藤勝一の検察官に対する昭和二十四年七月二十四日附供述調書、上津源三の同年八月十日附同上調書、星野一二の同月二十日附同上調書、佐藤光明の同月十八日附同上調書、芳賀雄太郎の同月十九日附同上調書、藤咲普次夫の同月二十三日附同上調書、日野定利の昭和二十五年五月二十六日附同上調書、証第二十八号写真)

四、平市警察署玄関前の衝突並びにこれに続く群衆の状況

右内郷町警察署を立ち去つた群衆の中、男女四・五十名は同署前からトラツクに便乗して平市警察署に向い、平市長橋町附近で下車し、赤旗を先頭に途中労働歌を合唱しながら田町大貞料理店前を経て午後三時三十分頃同署前に到着し、その内七・八名の者は、部下と共に玄関口を警備していた金田警部補に対し、署長に合わせろと要求し、同警部補から、交渉があるなら代表三名にしてくれと制止されたことから押問答を繰返している内、更に田町平駅方面からトラツク一台に乗つた四・五十名の男女が同署前に到着し、先着の一団と合流し総勢百名位となるやその内二・三十名の者は同署玄関口に押寄せ、署内に押入ろうとしたため、これを阻止しようとする署員との間に押合い、揉合いとなり、群衆中の或者は警備の指揮者である金田警部補を玄関前に引出して殴打するなどの暴行を加え、更にこれを制止し或いは同警部補を助けるため署前に出て来た数名の警察署員を取囲み棒・傘等で殴打し、或いは玄関口に警備している警察署員を棒で殴打し、又群衆中二・三十名の者は玄関口その他に投石をなす等の行為をなし、これらの殴打、投石等によつて署員十二名は打撲傷、裂傷等の傷害を負い、又玄関口その他の窓硝子等が破損するに至り、又群衆中の一人は、署員の制止を肯ぜず署内に侵入し建造物侵入の現行犯として逮捕せられた。(群衆がかかる行為に出るに至つた事由については後に謀議計画の項で判示する)

これらの紛争は、群衆中の制止やその頃玄関口に立出でた本田署長等の制止によつて数分にして止んだものである。(証人金田功、同磯目順孝、同安斉美芳、同谷春松、同大石正、同武藤忠司、同車田喜雄、同真野正太郎、同鈴木康一、同遠藤正利、同橋本弘子、同本田正治、同三谷晃一、同桑島茂光、同根本代重、同村上哲夫、同若松利夫、同伊藤徳雄、同橋本岩夫、同東務、同菅野広、同内蔵武雄、同山口学、同緑川昌吾の各証言、菅藤勝一の検察官に対する昭和二十四年七月二十四日附供述調書、佐久間信也の同年九月七日附同上調書、日野定利の昭和二十五年五月二十六・二十七日附同上調書、証第十八号中第一・第三乃至第六・第八乃至第十二・第四十三乃至第四十六・第四十八乃至第五十、第五十八、第五十九、第七十乃至第七十二葉写真、医師木村淳作成にかかる安斉美芳・谷春松・大石正・武藤忠司・金田功・磯目順孝・車田喜雄・真野正太郎・鈴木康一・遠藤正利に対する診断書、検察官大沼新五郎作成の検証調書)

その際本田署長等が、群衆の代表者五名と会見、交渉に応ずる旨を告げたので、鈴木磐夫、日野定利、松木佐吉、熊田豊次、佐々木贇の代表五名は、署長室に入り署長との交渉に当りその他は署前に留つて赤旗をふり労働歌をうたい気勢を上げて代表者の交渉を支援する態度をとり、その後朝鮮人連盟浜通支部事務所その他から集り来つた者もこれに加わり署前の群衆はその数を増加すると共に、署長室において署長との交渉に当る代表者の数も増加したが、同署玄関口には七・八名の警察署員が引続き警備しており、午後五時三十分頃に至るまでの約二時間は、署前の群衆中には署員の制止を排除して署内に入ろうとする者も、又署員に対して暴行或いは脅迫等の所為に出る者もなかつた。(証人本田正治、同伊藤徳雄、同橋本岩夫、同道向久右ヱ門、同佐藤進、同小野農武夫、同新妻二郎、同桑島茂光、同根本鬼一、同大沼智代春、同門間八郎、同後藤一六、同三谷晃一、同清野常雄、同佐川青子、同小林清、同村上哲夫、同若松利夫、同根本代重の各証言、桐生辰夫の検察官に対する昭和二十四年八月十日附供述調書、佐藤慶助の同月二十五日附同上調書、鈴木伝男の同年九月七日附同上調書、証第十八号中第二、第十三乃至第三十葉写真、証第二十号の一・二写真)

しかるに午後五時三十分頃に至り署前にいた群衆は、一斉に署内に立入るに至つた。(其の事情については後に不法占拠の項において判示する)

署内に入つた群衆は、最初主として客溜りに止つて交渉の結果を待つていたが、その後時間の経過と共に逐次署内に立ち入る者の数を増したため客溜り両側の事務室、廊下に入り更に署長室まで入るようになり、これ等署内に入つた群衆の数は二・三百名に達した。(証人柳田藤雄、同三谷晃一、同東務、同朴鐘根、同清野常雄、同桑島茂光、同小野農武夫、同桜庭尚康、同渡辺仲吉、同村松友枝、同橋本宗秀、同新妻二郎、同村上哲夫の各証言、裁判官の証人大塚正勝に対する尋問調書、証第十八号中第三十二乃至第三十八葉写真)

五、同署内における群衆の行動

署長室には、前記署前の衝突の直後署長に続いて代表として鈴木磐夫等五名が入り、間もなく鈴木光雄、金明福、金逢琴等も代表としてこれに加わり、主として鈴木光雄が交渉に当り、他の代表者等は同人の発言を補足し或いはこれを激励する態度をとりながら、先ず掲示板問題について本田署長に対し前記命令の取消を求めて交渉し、午後五時頃に至り、この問題は地区委員会が雨天の日を除いて三日の間に他に移転するということで妥結をみたが、代表等は引続き本日かかる事態が発生したのは署長の責任であるから辞職せよ、玄関前で警察は群衆に対し暴行を加えそのために怪我人が出た、その治療費を支払え、労使間の問題である矢郷炭砿争議に警官を派遣したのは労働者に対する弾圧である。その結果山本という従業員が死んだことは署長にも間接的な責任がある。これに対する慰藉料を支払え、等の要求を掲げて本田署長に迫つたが、同署長はいずれもこれを拒否し、署長の任免権は公安委員会にある旨説示したところから更に公安委員に会わせろ、公安委員を此処に呼べとの要求をなすに至つた。

その頃既に同署に来ていた公安委員は、午後六時三十分過頃先づ矢吹公安委員が署長室に入り署長の責任問題等について代表者と折衝し、午後八時過ぎには山崎公安委員長、猪狩公安委員を加えて交渉を続けたが、その後留置場における一部群衆の暴行が行われるに及んで公安委員は回答を留保して同署二階に引上げた。

午後十時頃から鈴木光雄等二・三の代表者は、二階刑事室等で山崎公安委員長と更に交渉を重ね即答を求めたが山崎委員長は事実を調査した上回答をなす旨を答え終始即答を留保する態度を変えず、その頃同署に来合せた柴田平市議会議員からも代表者に対し交渉を他日に譲るべき旨勧告した等のため同日午後十一時過頃群衆は鈴木光雄、日野定利等の指示に従い、交渉を打切つて同署を引上げたものである。(証人本田正治、同伊藤徳雄、同橋本岩夫、同矢吹大一郎、同山崎与三郎、同柴田徳二、同小林清の各証言)

その間前記のごとく署内に立ち入つた群衆中には事務室等において赤旗をふり労働歌を合唱し、これに和して棒で床を突き、或いは足踏みをして拍子をとる者があり、又群衆に対して交渉情況の報告又は激励演説をする者、これに和して拍手をする者があつて相当喧噪に亘る状況があり、(証人矢野庫吉、同上遠野透、同大沼智代春、同勝沼利雄、同伊藤徳雄、同柳田藤雄、同桑島茂光、同小泉辰雄、同東務、同小野農武夫、同伊藤菊太郎、同村上哲夫の各証言、証第十八号中第三十三葉写真)

署長室に立ち入つた群衆中に署長又は公安委員に対し馬鹿野郎、ずるい奴だ等の悪罵を浴せる者、或いは署長に対しやつてしまえ等の脅迫的言辞を吐く者或いは矢吹公安委員に対し殺してしまうぞと言つて火箸をふり上げる者があり、(証人本田正治、同伊藤徳雄、同矢吹大一郎、同山崎与三郎、同柴田徳二、同車田喜雄の各証言)

又廊下或いは事務室等において署員に対し蹴る或いは小突く等の暴行をなし、又棒で電球を叩き割り或いは状差を叩き落す等器物を損壊する等の所為に出た者があり、(証人野沢武蔵、同磯目順孝、同柳田藤雄、同根本鬼一、同星肇、同朴鐘根、同村上哲夫の各証言、証第十八号中第四十七、第五十二、第五十四、第五十五、第六十一、第六十二葉写真、検察官大沼新五郎作成の検証調書)

又同日午後八時過頃、前記署前の衝突の際群衆の一人である利川鎮吾が逮捕留置されていることを知つた群衆の一部の者は俄に騒ぎ出し、これを代表者に告げたため、前記代表者達も昂奮して本田署長に対し語気鋭く釈放を要求し、そのため同署長は、事態を収拾するため伊藤次席警部に取調べの上釈放すべきことを命じたのであるがその頃すでに数十名の者は留置場に押かけ、その内一部の者は警察官の制止を肯んぜず留置場入口の硝子戸を棒で叩き壊し留置場内に押入ろうとしたので看守巡査織井安吉は、拳銃を擬してこれを制止したため、一旦立ちひるんだが、同巡査が拳銃をズボンのポケツトに納めた瞬間十数名の者は、矢庭に留置場内に押入つて、或いは同巡査に組付き、或いは殴打する等の暴行を加え実砲四発装填の拳銃一挺を奪取し、同署第四監房に留置されていた右利川を奪還し、同房に織井巡査を押込み監禁し、其の際留置場内の椅子等を破壊する等の行為をなし、(証人本田正治、同伊藤徳雄、同織井安吉、同星肇、同遠藤正利、同小泉辰雄、同新妻二郎、同大石正、同野沢武蔵、同鈴木忠正、同村上哲夫の各証言、証第十八号中第三十八乃至第四十一、第六十三乃至第六十九葉写真、検察官大沼新五郎作成の検証調書)

又同日夕刻頃、群衆中同署玄関の柱に赤旗二本を交叉して換げ、「我々は警察を占領した」「人民警察ができた」などと揚言する者があつた。(証人後藤一六、同緑川佳一、同磯目順孝、同茂木茂、同野沢武蔵、同東務、同大河原考貞丸の各証言、遠藤弘、佐藤多美夫の検察官に対する昭和二十四年八月一日附調書、証第二十一号、第十八号中第三十一葉写真)

第二、本件は謀議計画に基いたものか

右湯本町、内郷町、平市各警察署における群衆の暴行、脅迫等の行為が、如何なる関係に立つかについて、検察官は、石城地区委員会の指導の下に平市警察署の襲撃が計画されたものであり、湯本町、内郷町両署に対するものは、その目的遂行の一環として隣接各警察署相互の応援を遮断し平市警察署の孤立化を企図してなされたものであると主張し、その謀議計画として、六月二十九日夜の石城地区委員会事務所における会合、翌三十日における内郷町所在の被告人日野定利方の会合を挙げている。

よつてこれ等の会合が如何なるものであつたかを検討すると、右石城地区委員会事務所における会合については、証人星肇の証言、証人清野常雄に対する裁判官の尋問調書、小松シメ子の検察官に対する供述調書によれば、六月二十九日夜九時過頃同事務所二階で鈴木光雄、長江久雄、榊原光治、高萩良一、清野常雄、金明福、小松シメ子等が集り、掲示板問題について相談の結果、明三十日更に平市警察署と交渉し場所が見つかるまでそのままにして置いて貰うことにする、この問題については下部組織にも通達連絡し、できれば各群委員会の党員に午後三時までに集まつて貰うことにし、その連絡には、そこに居た人達が各方部別に受持つことになつたということを認め得るに過ぎない。

しからば、右決定に基いて如何なる連絡がなされたかをみると、翌三十日早朝から、

小松シメ子は小名浜町方部に対する連絡に当り、(小松シメ子の検察官に対する昭和二十四年八月三日、同月六日附供述調書、平栗好男の同年八月八日附同上調書)

高萩良一は植田町方部の連絡をなし、(小松シメ子の前記八月三日附供述調書、証人金天文、同金国珍の証言)

金明福は広野町方部に対する連絡をなし、(証人朴申道の証言、尹珉の検察官に対する同年八月十三日附供述調書)

榊原光治は好間村所在古河好間炭砿方面に対する連絡をなし、(榊原光治の検察官に対する同年七月十二日附供述調書、木村一章の同月十一日附同上調書、舟木寛一の同日附同上調書)

清野常雄、村上俊雄は湯本町方部に対する連絡に当つた。(西原新七の検察官に対する同年七月三十日附供述調書、朴重根の同月二十六日附同上調書)しかし、その連絡の内容については、単に多数の者を集めて来てくれとか、或いは平市警察署長の掲示板撤去命令を撤回させるために平市警察署と交渉するから、その応援のため同志を集めて来て貰いたいという趣旨以上にはでていない。

次に被告人日野方における会合については、六月三十日午前中内郷町所在の日野定利方に、日野定利、鈴木磐夫、松木佐吉、佐々木贇等十数名が集合し打合せをしたことは、証人東務の証言、上津源三の検察官に対する昭和二十四年八月十日附供述調書、星野一二の同月二十六日附同上調書、佐藤光明の同月十八日附同上調書、藤咲秀夫の同日二十四日附同上調書、藤咲普次夫の同月二十三日附同上調書によつて認め得られるが、その打合せの内容については、当日午後四時に平市警察署に対し掲示板問題について団体交渉をすること、この交渉を有利にするため全党員と出来るだけ多くの団体を動員して応援して貰うこと、平署に対する交渉に先立つて内郷町警察署に対し、平市警察署に応援隊を動員しないよう申入れをすることであつたことが認め得られるに止まる。

そしてこの打合せに基いて、

佐々木贇は、常磐炭砿労働組合内郷支部員の動員を同組合支部長町田亀治に要請し、(証人町田亀治の証言)

斎藤隆行、寿炭砿労働組合員の動員について同組合長初田一夫に要請し、(初田一夫の検察官に対する同年十一月二日附供述調書)

又、矢郷炭砿においても組合員の動員が行われた。(星野一二の検察官に対する前記供述調書、安藤伝四郎の同年八月二十四日附同上調書、梅原キヨの同月十五日附同上調書、石井勝男の同年九月七日附同上調書、鈴木伝男の同日附同上調書、佐久間信也の同日附同上調書)

しかし、その要請或いは連絡の内容は、平市警察署に対する交渉を支援すること以外には認められない。

ところで右会合に謀議計画があつたことを示すものとして検察官は諸種の事象を挙げているので、次にこれ等の点について検討をすすめる。

証人鈴木将夫の証言によれば、六月二十九日午後一時頃内郷町所在の常磐炭砿労働組合製作所支部事務室内で、明日は革命の予行演習がある旨の話が交されていたということである。しかしそれが如何なる人によつてなされていたか、又その革命の予行演習なる言葉が何を意味するか明らかでないのみでなく、その話が交されていたとする時刻の関係からみても、その頃は金明福が本田署長から掲示板撤去の命令を受けた直後の頃であり、鈴木光雄がこれに抗議するため平署に赴いた頃の時刻と認められることよりみても、これを以て所謂謀議の現われとはなし得ないし、又同日夜の地区委員会事務所或いは翌三十日の日野方の会合を意味づけその内容を推測し得る証拠とはなし難い。

湯本町三函にある湯本町署の掲示板に、六月三十日朝、「弾圧をやめさせよ」と題し「でたらめな警察をたたきつぶし民族の独立の為に闘う、諸君行け、平署へ、午後三時平駅前集合」と書いたビラが日本共産党湯本細胞の名で掲示され(証人渡辺清憲、同菅家徳寿の証言、証第二十五、第二十六号写真)、又同日朝常磐炭砿磐崎通勤区事務所前の同会社掲示板に、「言論の自由の為めに戦う」と題し、その中に、「本日平地区共産党は、生命かけて言論の自由の為に戦う、湯本警察署前と平警察署前において、各所午前十時より」との文言のあるビラが日本共産党磐崎細胞の名で掲示され(証人草野景介、同角田秀雄、同渡部緑の各証言、証第二十四号ビラ)、又同日午後三時頃平市田町通りの電柱数個所に、「警察を葬れ」と書いたビラを貼る者があつたこと(証人矢野庫吉の証言)が認められ、その文言において激越な点もみられるが、これを当日古河好間炭砿砿業所向いの塀に、日本共産党古河細胞の名で貼られたビラ(証人善林清の証言、証第二十三号ビラ)―その内容は、「昨日警察は態度をかえて強硬に掲示板撤去を申入れて来た、これは労働者への明らかな挑発である、これに対し共産党は、人民の先頭に立ち、本三十日午後四時を期して自治警察署に対し一大抗議デモを行う、皆さんの御援助を御願いする」とある―と対比し、かつ労働運動等の檄文乃至は宣伝文の一般の例に照して考えると、右の激越な文言を文字どおりに受取り、直ちにその文言通りの意図があつたとみることは困難であり、これを以て前記会合がかかる内容のものであつたと認定する資料となすことはできない。

群衆が平市警察署に押かけるに先立つて、湯本町方面の者は湯本町署に、又内郷町方面の者は内郷町署にそれぞれ押かけたのは、平市警察署に対する応援警察官の派遣を阻止する意図に出たものであることは前認定のとおりであるが、これが検察官主張のごとく、平市警察署襲撃のためその前哨戦として隣接警察相互の応援を遮断し、平市署の孤立化を企図したものといい得るかについては、先ず次の事情を明らかにしなければならない。

本田署長が本件掲示板の存在することが交通上支障ありとして、道路一時使用の許可を取消してその撤去を命じたのは、掲示板の存在自体が交通上支障ありとするものではなく、掲示板をみる人が道路上に立ち止つている状況によるものである。(証人本田正治、同伊藤徳雄、同柳田藤雄の各証言、本件掲示板が立てられていた位置は道路の北端から一尺の地点であり、その存在自体が交通上支障ありとなし得ないことは福島地方裁判所がなした前記検証調書並びに証第二十二号中第一葉の写真により明かである)そして掲示板の内容をみるため道路上に人が立ち止まることが交通上に支障がないとは言い得ないが、それをみるために多少の人が立ち止ることがあることは、本件道路一時使用願が宣伝活動のため壁新聞を設けるためであつたことからして当初許可を与える際当然予定されていたことであつて、それが当初予期し得ない程著しい程度に達し許可を取消すことが相当であるとする状況があつたとは認め難い。(証人後藤一六、同斎藤敏雄、同桑島茂光、同鈴木亀吉、同斎藤昌平、同村上哲夫、同山田学の各証言、証第二十二号写真)従つて、さきに認定したごとく、六月二十五日本田署長が右許可の取消並びに撤去命令をなし、更に同月二十七日に至り代執行をする旨通告したこと、その後同月二十九日に、交通上の支障の程度が著しく増加し撤去させることが緊急を要するに至つたと認められる事情もないのに、二十七日になした協定の趣旨に反し六月三十日午後四時を期して代執行する旨を通告したことは、いずれもその理由に乏しく、不当な措置といわざるを得ない。しかのみでなく、本田署長以下同署の幹部がかかる状況を認識したのは六月初旬であつたのに、その後これに対し格別の措置をもとることなく同月二十五日に至り、突如として許可取消並びに撤去の命令を出すに至つたこと、及びその際署長の命をうけて右通告をなした杉森巡査部長が、右命令は占領軍の指示に基くものであるかのごとき口吻をなしたこと(証人本田正治、同清野常雄、同杉森勘治の各証言)等に照らし、地区委員会側或いはこの問題に関心を有する労働者が、かかる署長の措置を以て他の何等かの意図に基くものではないかと疑い、共産党の政治活動に対する弾圧であるとし、或いは労働者に対する弾圧であると解したことも已むを得ない事情があつた。従つて、六月二十九日午後三時頃鈴木光雄が本田署長に対し、撤去命令の取消を求めて強硬に抗議したが容れられず憤激して同署を立ち去るに際し、斯様な一方的な強圧的態度には我々は屈服することはできない、署長がそのような無茶な主張をしこの問題から何事か起きた場合には我々は一切の責任を負わない、警察側で責任を負うべきである旨の言辞を残し、(証人本田正治、同伊藤徳雄の各証言、鈴木光雄の検察官に対する供述調書)又翌三十日午後三時頃金明福が西岡慶三郎と共に、同署長に対し種々交渉したがその要望を一蹴されて同署を立ち去るに際し、話がきまらないなら署長も警察を動員したらどうか、我々の方も集めるから一喧嘩するしかあるまい旨の言葉を残したこと(証人本田正治、同伊藤徳雄、同柳田藤雄の各証言)も警察側の不当な措置に対する一時の憤慨の言葉として理解し得るのであり、殊に金明福は一旦はかかる言葉を吐いたが再び延期の要請をしているのであつて、(証人伊藤徳雄の証言)これらの言葉により二十九日夜の地区委員会事務所における会合内容を推断することは困難である。

六月二十七日午後、前認定の如く、地区委員会の代表者並びに労働者が平市署に赴いた際、湯本町警察署、内郷町警察署は平市警察署長の要請に基いて同署に対し警備のため応援警察官を派遣したため、群衆はこれを目して警察力を動員して正当な交渉を弾圧するものであるとし、平市警察署前で応援に来た一部警察官を阻止する行動に出、更に平市警察署における交渉妥結後、その一団は同日午後七時頃内郷町警察署に押かけ労働者を弾圧するなと抗議し、又翌二十八日午後二時三十分頃鈴木光雄等百名以上の群衆は、湯本町警察署に押かけ同署がとつた前記措置並びに同署がさきに矢郷炭砿争議に際して応援警察官を派遣したことについて抗議するところがあつた。(証人本田正治、同伊藤徳雄、同塩谷重蔵、同中塚四雄、同菅家徳寿、同渡辺清憲の各証言、熊田豊次の検察官に対する昭和二十四年七月十六日附供述調書、朴重根の同月二十六日附同上調書、鈴木光雄の昭和二十五年七月十日附同上調書)

右二十七、二十八日の両町署に対する抗議、及び同月三十日群衆が平市警察署に赴くに先立ち、湯本町警察署或いは内郷町警察署に押かけたこと、特に内郷町署においては湯本町署における状況と異なり、署長の言明を以て足れりとせず、執拗に誓約書の作成を迫り、又古口部長に対し謝罪を要求して暴行をなす等の態度に出たことを理解するためには、更に当時の矢郷炭砿争議、及びこれに際して内郷町警察署がとつた態度等についてみなければならない。

矢郷炭砿は、磐城神奈川炭砿株式会社が内郷町大字白水地内で経営している大山坑、本坑、補助坑の総称で、矢郷倉蔵が代表取締役として鉱業所長の地位にあり、昭和二十四年五月頃は従業員四百五・六十名を有していたが、昭和二十三年九月頃から経営不振に陥り従業員の給料及び主食その他の物資の配給が遅れ勝ちになり、翌二十四年に入つてからはその状況は更に悪化したため、従業員の生活も困窮の度を加えた。同年三月中旬以降同会社は同炭砿労働組合側と経営の再建について協議を重ねたがその成案を得ないため、同年五月末日限りを以て従業員中老年者、不具者及び生産阻害者として同組合の戦闘的幹部等合計約百二十名の馘首をなすに至つたことから同組合はこれに反対し、友誼団体にその実情を訴え闘争に立ち上つた。

かかる矢郷炭砿の状況は、経済九原則、石炭産業政策の実施が中小炭砿殊に低品位炭を産出する常磐炭田の炭砿に及ぼした影響が最も極端な形で現われたものとして各方面から注目され、又当時常磐地方における各炭砿、工場等においても企業の合理化が必然とされ、これを理由とする従業員の馘首がなされようとしている傾向にあつたため、この争議の成否は、各企業における今後の動向を決するものとして労働者のみならず、経営者においてもその成行について深い関心を持つていた。従つて矢郷炭砿の従業員が甚しい生活の窮乏に堪えながら続けたこの争議については、広く県内、県外の労働者の強力な支援をうけていたものである。(証人矢郷倉蔵、同佐々木勇、同佐藤末男、同熊田有宏、同斎藤次郎、同高山慶太郎、同三輪行治、同御代富弥、同掛札満男、同佐藤勝多、同長島千春、同上坂昇、同高崎敬次郎、同津々良渉、同斎藤清、同菅原政一、同高松吉木代の各証言、証第四十号檄と題する書面、証第四十一号激励文、証第四十二号声明書)

所轄内郷町警察署はこの争議に伴い不祥事態の派生することを危惧し、警備係巡査部長古口定吉をして絶えずその状況を視察せしめ情報の蒐集に努めていたが、同会社は同年六月八日福島地方裁判所平支部に対し、被解雇者中解雇を受諾しない者七十名が砿業所内に立ち入ることを禁止する旨の仮処分の申請をなし、即日その命令を得たため、翌九日午後その執行をなしたが、内郷町警察署長は古口部長の情報に基きこの執行にあたり、会社側と従業員との間に紛争その他の事故が起る気配ありとし、平地区警察署、平市警察署、湯本町警察署に対し応援警察官の派遣を求め、九日早朝五十名の警察官を矢郷炭砿に派遣し各坑口その他に配置して仮処分の執行に先立つて従業員の入坑を阻止する態度に出、同日以降においても入坑阻止のため数回署員を派遣したことがあつた。

又これよりさき、矢郷炭砿労組員は被解雇者及びその家族の困窮の状況を、内郷町役場に訴え主食の掛売りを要請し、そのため招集された六月三日の臨時町議会でこの問題が審議され、更にその後の町議会においても審議を重ねた結果、遂にこの問題は、争議の当事者の一方に経済的援助を与えるべきではないという理由によつて否決されたが、町議会においても容易ならざる困窮の状態にあるものとみて調査団を設けその実情を調査し、別途救済の方法をとるに至つたが、右町役場に対する要請、及び右議会における審議の際においても内郷町警察署から古口部長以下数名の警察官が派遣されたことがあつた。

かかる内郷町警察署の措置、殊に仮処分執行の際の措置は、予防警察の範囲を逸脱していると認められる状況があるため、矢郷炭砿従業員のみでなくこの争議に深い関心を有する労働者等を剌激し、内郷町署が争議に不当に干渉し労働者を弾圧するものであるとして強い反感を買い、同署長はこれについて抗議を受けたこともあり、特に労働者は同署警備係古口定吉に対しては個人的にも悪感情を持つに至つた。(証人塩谷重蔵、同平田直男、同古口定吉、同菅家徳寿、同渡辺清憲、同中塚四雄、同桑島茂光、同松崎博、同一条与作、同須田一男、同佐藤末男、同大平清、同斎藤清、同折原義松、同掛札満男の各証言、福島地方裁判所平支部昭和二十四年(ヨ)第三十号仮処分申請事件記録(証第五十七号)、執行調書謄本)

加之、矢郷炭砿労組員は争議に関する実情を広く世人に訴えその支持を得る方法として、前記平駅前の掲示板を利用していたため、これが撤去されることは争議の成果に甚大な影響を及ぼすものとして、矢郷炭砿従業員は固よりこの争議に関心を有する他の労働組合員等においても、重大な関心を持ち、この問題についての平市警察署長の処置、並びに六月二十七日の交渉の際湯本、内郷両町署が応援警察官を平市警察署に派遣した処置については、従来内郷町警察署が矢郷炭砿争議についてとつた態度に照らし労働者並びに争議に対する不当な弾圧であるとみていた。(証人佐々木勇、同斎藤清、同柳田藤雄、同後藤一六、同岡田馨、同西岡慶三郎の各証言、星野一二の検察官に対する昭和二十四年八月十九日附供述調書、金内直の検察官に対する供述調書、前記証第二十三号ビラ)

これが矢郷炭砿従業員を含む多数の労働者が、二十七日以後の本件掲示板問題についての大衆行動に参加するに至つた理由の主なるものであると共に、六月二十七日内郷町警察署が労働者を弾圧するなとの抗議をうけ、翌二十八日湯本町警察署が平、内郷に応援警察官を派遣した処置について難詰された事由であると認められる。又六月三十日群衆が内郷町署長に対し、その言明を以て足れりとせず執拗に平市警察署に応援警察官を派遣しない旨の確約をなさしめんとし、又その際同署前において古口部長が謝罪を要求されて、所謂吊し上げをうけたのもかかる事情によるものと認められる。

即ち六月二十七、二十八日の内郷、湯本両警察署に対する群衆の抗議を以て、検察官の論ずるごとく平市警察署に対する襲撃の意図を現わすものと見るを得ないことは、右認定の事情と掲示板問題についての交渉の経過に照らして明らかであるのみでなく、六月三十日群衆が平市警察署に赴くに先立つて、湯本、内郷両警察署に押かけ応援警察官派遣を阻止する行動に出たのは、両署がとつた従来の行動に照らし同日平市警察署において為す交渉に際しても前と同様な態度に出ることを予期し、前記のごとく之を弾圧行動と解したためこれを阻止せんと図つたに過ぎず、その際内郷署においては同署長に対する従来の不信の念から執拗にその確約を迫り、又古口定吉に対しては偶々従来の反感の迸るまま前記の所為に出たものと認められ、その状況からみて当初からかかる暴行又は脅迫を為す意図を有していたものとは認め難い。

従つてかかる群衆の行動を以て平市警察署を襲撃する意図を示すものとみることはできないし、当日群衆が平地区警察署に対し何等かかる行動に出なかつたことに徴しても(証人橋本岩夫の証言)かく理解せられるのである。

同日午後三時三十分頃群衆が平市警察署に押かけた際、同署前で群衆によつてなされた暴行が如何なる事由に基いたものであるかは、前記認定の当否に影響があるので更にこの点について検討すると、この点について検察官は、群衆が署内に侵入しようとした際その一員である利川鎮吾が住居侵入の現行犯として検挙されたことがその原因であるとしている。その際利川が建造物侵入罪の現行犯として逮捕されたことは明らかであるが、同人を逮捕したと認められる証人山口学、同橋本五作、同村松友枝の証言によるも、利川が署内に入つて来たのは金田警部補が群衆によつて署前に引出された後である点については一致しており、又、同日午後八時過頃留置場の騒ぎが起るに至つた直前までこのことが代表者或いは群衆によつて問題にされた形跡がないことからしても、署前における暴行の際群衆が利川が逮捕されたことを覚知していたものとは認め難いところであつて、これが群衆が暴行をなすに至つた原因とは理解し難い。

署前における紛争の際、本田署長等が署前に立ち出でて群衆を制止した際における鈴木磐夫の言動に関する証人伊藤徳雄、同橋本岩夫の証言、その際警察官に拳銃を擬していた者があつた旨の本田署長の証言、及び同署前における押合いの際における警察官の行動についての証人東務、同朴鐘根、同山崎旻の各証言、茂木正吉の検察官に対する昭和二十四年七月十九日附供述調書、大竹保司の同年八月三十日附同上調書、早川正二の同月十八日附同上調書、樋渡一郎の同月六日附同上調書、伊達重春の同月二十五、二十六日附同上調書、堀川浩吉の同年七月十七日附同上調書、日野定利の昭和二十五年五月二十七日附同上調書並びに前認定の衝突後における群衆の状況を綜合すると、同署玄関口で群衆の一部が、署内に押入ろうとしたのは、玄関口に十数名の署員が立ち塞つており群衆中七、八名が金田警部補と押問答をしている状況をみた後着の群衆は、その経緯を知らないため警察側が一切の入署を拒否し或いは交渉に応ずる意思がないものとの誤解に出たため、敢えて入ろうとしたものであることが窺われ、ためにこれを阻止しようとする署員との間に押合い、揉名いとなつたが、その際、同所を警備していた署員が押入ろうとする群衆を阻止するため警棒を揮つてこれを突き、或いは殴り、そのため群衆の一人が頭部に裂傷を負い流血をみるに至り、かかる警察側の態度に憤激したことから群衆中の或者が警備の指揮者である金田警部補を署前に引出し暴行を加え、引続き他の警察官に対しても暴行を加えるに至つたこと、更にかかる状況に加え、その頃玄関口におつた警察官中群衆に対し拳銃を擬する者があつたこと等から玄関口等に投石を為す所為に出るに至つたこと、又群衆が暴行投石に使用した棒、石は咄嗟の間附近から拾つたものであることが認められる。

同署を警備していた署員中には、群衆の代表であると否とに拘わらず誰でも署内に入れるなと指示されたと信じていた者も見受けられることは(証人遠藤正利、同真野正太郎の証言)、右認定の如く警察官が群衆に対し積極的な反撃に出たことを理解せしめる資料となるものである。

すなわち群衆の同署前における暴行は、以上の様な事情に基いて偶発的に発生した事態と認められるのであり、更に前に認定したように同署前の衝突の際群衆中にこれを制止する者があつたこと、この紛争が数分にして止み、交渉員が署内に入つた後多数の群衆は約二時間の間署前に止つており、その間更に警察署員に対し暴行等の所為に出る者もなかつたことに徴するも、群衆が予め同署を襲撃する意図を有していたものとは認め難いところである。

群衆が平市警察署に押かけるに先立つて平市十五丁目所在の在日朝鮮人連盟浜通支部事務所に多数の者が集つた際、同所二階で午後三時頃平市署に赴いた際の群衆の統制をとるために責任者を決め、又交渉員を選定し或いはスパイ活動、スパイの挑発に対する対策をなした等の事実(証人佐藤進、同佐藤一、同桜庭尚康、同渡辺一男の各証言、朴重根の検察官に対する昭和二十四年七月二十八日、同年八月十日附供述調書、小宮薫の同年七月二十日、同年八月五日附同上調書)も右認定を確実ならしめる根拠となるに止まり、検察官主張のようにこれを騒擾行為遂行のための謀議となすことはできない。

更に検察官は、本件は福島県内外の同志間に連絡を保ちながら、広く行動情報の交換をなしつつ同時多発的に騒乱を起し、警察力の分散を企図したものとし、これを以て本件を計画的犯行と主張する。

そして当時若松市方部においては、三菱広田工場において解雇問題に端を発する争議事件があり、又三十日当日福島市においては定例県議会に際し多数の労働組合員等が、「主食の掛売を認めよ」「公安条例反対」等の要求を掲げて議事堂に参集し傍聴席で赤旗を下げその撤去を阻む等の事件が発生したこと、又同日夜小野新町警察署の署員が平市警察署に対する応援のため国鉄の自動車によつて平市に向つた際、国鉄労組郡山分会小野新町班長草野博が同労組福島支部の指令に基いてこれを阻止せんと図つたこと、同日夕刻頃平市警察署で群衆に対し右若松、福島の事件を含む県内労働情勢について演説したものがあり、又同夜八時過頃県内外の警察官の動向について報告する者があつたこと、そして全逓平支部書記局が平市警察署における状況を県内外に連絡すると共に各地における情報を入手していたことが認められ、右平市警察署における演説或いは報告は右書記局が得た情報等に基いたものであることが窺われる。(証人三輪行治、同草野博、同渡辺安広、同草野光平の各証言、証人大野友春に対する尋問調書、杉原清の検察官に対する昭和二十四年八月二十二日附供述調書、半抗学の同年七月十九日附同上調書、大竹保司の同年八月三十日附同上調書)

然しながら、本件が右若松、福島における事件と連繋を保ちつつ或いはこれらの事件が発生した機会を利用して計画され、又は惹起されたものと認めるに足る何等の証拠もない。又前記若松、福島における事件或いは右警察官阻止の企図が、本件における群衆の意思と如何なる関係においてなされたかもこれを確認するに足る証拠もないのであつて、全逓平支部書記局において各地と情報の交換がなされたこと、或いはこれらの情報が当日平市警察署において群衆に報道されたことによつて本件を計画的な犯行となすことは困難である。

以上認定した事実に徴し、多数の群衆が平市警察署に押かけたのは、石城地区委員会がなした同志糾合の連絡に基いたことが原因であること、並びにこれが平市警察署長の掲示板撤去の命令を不当としてこの命令を撤回させるために交渉するに当り、多数人の応援を得てこれによつて交渉を有利にする目的の下になされたものであることは明らかである。

そして警察署の措置を不当とし、その不当な措置に対し交渉或いは抗議すること、その際大衆を動員して大衆による交渉或いは抗議の形をとること自体、何等違法ではあり得ない。勿論大衆の集団にはその形成に伴い自ら威力を生ずること、又これが相手方に対し心理的影響を与えることがあるのは容易に看取し得るところであり、大衆による交渉或いは抗議の形をとること自体かかる心理的効果を意図したものといい得るが、このことは大衆行動が是認されることによる当然の帰結であつて、これを以て暴行又は脅迫の意図ありとはなし難いところである。検察官の全立証を以てするも、平市警察署を襲撃する謀議或いは計画があつたと認めるに足る証左はない。

又同署においてこれら多数人によつて暴行又は脅迫等の不法行為が為されることを予期して多数の動員を計つたものであり、又これによつて同署に赴くに至つた群衆についてもかかることを予期していたものであると認められないことは、前に認定した事実並びに同署に押かけた群衆中には多数の婦女子がおり、中には幼児を背負つた者も見受けられ、又同署に赴いた群衆の服装持物も平素の通りと認められ、(証第十八号中第四、第十八乃至第二十二葉の写真、証人村上哲夫の証言)この点について指示連絡された形跡がないことによつても窺い知られるところである。

第三、平市警察署の不法占拠について

同日午後五時三十分頃、それまで同署前に居つた群衆が一斉に署内に立入り午後十一時過頃の退散に至るまで同署内に滞留しておつたこと、その間同署内等において群衆中に喧噪に亘る行為或いは暴行脅迫の所為に出た者があつたことは、さきに認定した通りであつて、検察官はこれを目して群衆が同署を不法に占拠したとしている。

この点に関し弁護人は群衆が署内に立入るに至つたのはこれについて本田署長の許可があつたためであると主張するので、この点果して署長の許可があつたものであるかどうかを検討すると、

証人小林清、同山崎旻、同皇甫賢の各証言、証人清野常雄に対する裁判官の尋問調書、佐藤慶助の検察官に対する昭和二十四年八月二十五日附供述調書、被告人鈴木光雄、同金明福の供述によれば、本田署長は群衆が署内に入ることを許可した旨の供述があるが、これに反し当人である証人本田正治自身及び同伊藤徳雄、同橋本岩夫はかかる許可を与えたことはない旨証言している。

右の内清野常雄、佐藤慶助のこの点に関する供述は同人等の当公判廷における証言に照して措信し難いところである。

鈴木光雄、金明福は群衆の代表として署長室において終始本田署長との交渉に当つた者、伊藤徳雄は同署次席、橋本岩夫は平地区署長であり交渉に際し共に本田署長の相談相手としていた者、小林清、山崎旻、皇甫賢はいずれも新聞記者として署長室における交渉の席に臨んでいた者である。

これらの者が何故この点について、かく相反する供述をなしているかについてこれを他の証拠、特に、鈴木光雄の検察官に対する昭和二十五年七月十日附供述調書と対比して考察すると、

(イ)  同日午後三時三十分頃、小雨模様であつた雨はその後次第に強く降り出して来たため、午後五時頃署前にあつて交渉の結果を待つていた群衆の中から雨が降るから署内に入れてくれという声、或いはこのことについて署長と交渉してくれという声が起つたこと、(証人三谷晃一、同後藤一六、同桑島茂光、同上遠野透、同寺田兼蔵、同平栗好男、同朴鐘根、同清野常雄、同山崎旻、同皇甫賢の各証言、渡辺安己の検察官に対する昭和二十四年八月五日附供述調書、遠藤弘の同月一日附同上調書、朴重根の同年七月二十六日附同上調書、鈴木光雄の前記調書)

(ロ)  署長室で交渉中の代表者が、かかる群衆の要求により本田署長に対し、署前の群衆が、署内に入ることを許可するよう交渉したこと、(証人清野常雄、同小林清、同三谷晃一、同斎藤敏雄の各証言、木幡和夫の検察官に対する昭和二十四年八月九日附供述調書、鈴木光雄の右調書)

(ハ)  本田署長は、この交渉に対し当初は拒否し、次いで黙殺する態度に出たため、代表者は再三繰返して要求したこと、(証人小林清、同山崎旻、同皇甫賢の各証言、鈴木光雄の右調書)

(ニ)  本田署長はこれら再三の要求に対してその態度を明確にしなかつたこと、従つて、これを許可したものではなかつたこと、(証人本田正治、同伊藤徳雄、同橋本岩夫の各証言、鈴木光雄の右調書)

(ホ)  しかしながら前記本田署長の態度からして、同署長が署内に入ることを黙認したものと誤信されるような事情があつたため、当時新聞記者間に署内に入ることについて署長の許可があつたという話が伝えられ、(証人三谷晃一、同大塚正勝の証言)、又代表者或いは連絡員が署前の群衆に対し署長の許可がでたから署内に入るよう指示し、その結果群衆は一斉に署内に立入るに至つたものであること、(証言佐藤進、同東務、同伊藤菊太郎、同朴鐘根、同小野農武夫、同桜庭尚康、同大塚好夫、同平栗好男の各証言、遠藤弘の検察官に対する同年八月一日附調書、朴重根の同年七月二十六日附同上調書、船山義秋の同年九月七日附同上調書、渡辺安己の同年八月五日附同上調書、鈴木光雄の前記調書)

を認めることができる。

本田署長が許可したとする前記供述はかかる誤信に基いたものと窺われるのみでなく、右供述中その許可したとする範囲について或いは客溜りだけといい、(証人小林清の証言、被告人金明福の供述)或いは交渉の邪魔にならぬよう署長室に入らないという条件があつたといい、(被告人鈴木光雄の供述)或いは単に入つてもよいということであつたといい、(証人皇甫賢の証言)或いは入る場所についての制限については記憶がないといい、(証人山崎旻の証言)その供述が区々であつて、果してこれらの言葉が本田署長の口から出たものかどうか疑わしく、前記の証拠に照すと本田署長が許可したとする証言又は供述は容易に措信し難いものである。

証人磯目順孝、同渡辺仲吉、同内蔵武雄、同篠谷清重、同柳田藤雄、同根本鬼一、同新妻二郎、同車田喜雄等の証言によれば、署前の群衆が一斉に署内に入る頃、「警察署は我々の税金で建てたものだ、我々だけ雨にぬれながら外に立つている理由はない、かまわないから入れ入れ」等と叫ぶ者があつたことを認めることができるが、前認定の事情に照らし、又それまで署前に止まつて交渉の結果を待つていた群衆を動かす力として、かかる言葉は許可が出たという言葉に及ばないことを考え合わせ、特に証人渡辺仲吉、同新妻二郎の証言によればかく叫ぶ者があつたがその時は入る者がなかつた事実も窺われるのであつて、もとより多勢の群衆のことではあり中には、この様な気持ちで入つた者がないとは断じ得ないが、かく叫ぶ者があつたことが群衆が署内に入るに至つた原因であるとは認め難い。

そして当時玄関口附近には七、八名の警察官が居つたが群衆が署内に入るについてこれを制止した者は一、二名に止まり、しかもその制止は大勢に徹底される方法でなされたものでなかつたこと、又群衆が署内に立ち入つた後は同署員等は群衆の勢に圧倒された形となり、上級者からの指示がないまま全く事態を放任する状況であつたことは、証人渡辺仲吉、同新妻二郎、同磯目順孝、同根本鬼一、同柳田藤雄、同桑島茂光、同大石正、同朴鐘根、同村松友枝、同橋本宗秀、同遠藤正利、同篠谷清重、同車田喜雄の各証言に徴して認め得るところである。

かかる状況に加え、その後暴力団が来るから署内に入るよう指示する者があつたことから更に署内に入る者が増え、(証人大沼智代春の証言、長岡和雄、伊藤菊太郎、寺田兼蔵、吉田ステヨ、斎藤コウの検察官に対する各供述調書)最初主として客溜りに止つて交渉の経過を待つていた群衆はその後客溜りの両側の事務室、廊下、署長室に立ち入るに至つたが事務室は客溜りと高さ三尺余の受付台によつて区切られているだけでその間に特別の障壁はなく右受付台の北端が約三尺切れて客溜りとの通路となつており、又署長室は客溜りの左側(西側)事務室に引続いて存在し交渉が行われていたが事務室との間の戸は一部開放されており、そして当時事務室内では執務している署員もなかつたのである。(本件について当裁判所がなした検証調書、検察官大沼新五郎作成の検証調書、証人三谷晃一、同本田正治の証言)

すなわち、群衆が同日午後五時三十分頃一斉に署内に立ち入るに至つたのは、雨のため署長の許可がでたから入れと指示する者があつたことが原因であり、その経過並びにその際における警察署員の態度等に徴すれば、かく誤信されても已むを得ない状況があつたと認められ、群衆が前記指示に基いて立ち入つたことも一概に責められない状況があり、又署内に入つた群衆が事務室署長室に立ち入つたことについても右の諸状況があるのであつて群衆が署内に立ち入り、或いはその後事務室署長室に入つたことも不法に同署を占拠し或いは暴行脅迫等の所為をなす意図があつたものと認めることは困難であり、当初は署内に入り雨を避けながら交渉を待つ意図以外に他意はなかつたものと認めるのが相当である。(証人村上哲夫の証言、証第十八号中第三十二、第三十三葉写真参照)

従つて、右立ち入りを以て暴行意思の現われであるとは認め難い。

然らば、群衆が署内に立ち入つた後においてかかる意図を有するに至つたかどうかの点について検討すると、証人本田正治、伊藤徳雄の証言、熊田豊次の検察官に対する昭和二十四年七月七日の供述調書によれば、本田署長は群衆が署内に立ち入つた後、署長室で代表者に対し三回に亘つて代表者以外の者の退去を要求したが代表者によつて無視され、又伊藤徳雄も鈴木光雄に対し群衆の引上げを求めたが拒否され、いずれも群衆には伝達されなかつたことが認められる。(右伊藤証人の証言中には同証人が事務室内の自分の机の辺り、及び受付台附近で代表者以外の者の退去を求めたが退去しなかつた旨の供述があるが、他方同証人は群衆を退去させるよう署員に下命することは恐ろしくてできなかつた旨の相反する供述もしており、にわかに採用し難いところである。尤も証人斎藤敏雄の証言中右の証言に合致するかのごとき点もあるが、これを右伊藤証言と対比して検討するとその時期並びに状況に関し著しい相違があるのみでなく、寧ろ証人渡辺仲吉、同新妻二郎、同橋本宗秀の証言を綜合すると右は群衆が一斉に署内に立ち入る前玄関口附近に居た群衆に対し、その立入りを制止した状況に関するものと認められる。

本田署長が同日午後六時三十分頃公安委員と協議の上橋本地区署長を通じて国警福島県本部に応援警察官の派遣を要請したことが認められ、そしてそれは署内に立ち入つた群衆が事務室等にあつて歌をうたい、或いは演説をなし、署長室における代表者の交渉を支援する態度に出たため、署内の群衆を排除するためであつたというのであるが(証人本田正治、同橋本岩夫、同伊藤徳雄、同矢吹大一郎の各証言)群衆が署内に入つた後同署員の態度は前認定の如くであり、又本田署長以下同署の幹部がかかる群衆の態度を制止し或いは群衆に徹底する方法で署内からの退去を求める等群衆を退去させるについて充分な努力をなした形跡は認められない。(証人伊藤徳雄の証言によればこの点について部下に下命したことはなかつたことが認められる)

却つて前記応援警察官要請の後においては、その到着を待つて逮捕する意図の下に故意にかかる状況を放置し群衆を滞留せしめる態度があつたことが窺われる。(証人山崎与三郎、同柴田徳二の証言)

かかる状況からみれば、群衆が署内に滞留し、その間或いは激励演説、中間報告をなし、或いは赤旗をふつて労働歌をうたい署長室の交渉を支援する態度があつたことを以て同署を不法に占拠する意思或いは暴行意思の現われとみるべき不退去の行為があつたものとみることは困難である。

そして、かかる交渉支援の態度がそれ自体脅迫行為に該るとは認められない。もつともかかる態度も署内においてなされた他の暴行、脅迫、器物損壊等の行為と包括して客観的に考察すれば全体として人を畏怖せしめるに足る行為とみられ得ないでもないが、右の態度に出た者がかかる認識を有しながら、暴行等の所為に出た者と意思を共同にしていたと認めるに足る状況はない。

すなわち、留置場における場合を除けば署内における暴行等の行為はいずれも個々的、散発的になされ、かつ、かかる行為に出た者は少数の者であることが認められ、かかる行為がなされた際群衆中にこれを制止する者が見受けられたこと、(証人本田正治、同伊藤徳雄、同朴鐘根の各証言、同大野友春、同木幡和夫に対する尋問調書)

又、留置場における暴行についてみると、留置場内に押入つた十数名の者についてはその状況からみて共同暴行の意思があつたものと推認されるが、その際留置場前の廊下に押かけた数十名の者がその押かけた行為のみによつて等しくかかる意思があつたものとみられ得るかは疑わしいのみでなく、その際群衆中に暴行に出ることを制止した者があつたことによつても等しくかかる意思を認めることは困難であること、(証人大石正、同星肇、同村上哲夫の各証言、朴重根の検察官に対する昭和二十四年七月二十六日附供述調書、佐藤慶助の同年八月二十五日附同上調書、証第十八号中第三十八乃至第四十一葉写真)

署長室における場合を除けばこれらの行為は交渉とは無関係な場所、状況の下になされていること、及びかかる行為がなされた際群衆中にこれに同調する動きがあつたと認められる証拠がないこと、前記認定の群衆が同署内に立ち入るに至つた事情並びに意図とを考え合わせるとこれらの暴行等の行為は交渉の結果に関心を有し署内に滞留しておつた大多数の群衆の意思とは関連なしになされたものと認められる。(証第十八号中第三十二乃至第三十七葉写真参照)

同日夕刻頃群衆の中に同署玄関の柱に赤旗二本を交叉して掲げ、「我々は警察を占拠した」「人民警察ができた」などと揚言する者があつたことは、さきに認定したとおりである。

しかしながらこれらの行動をなした者が相当の多数に上つたこと、或いはこれらの行為が群衆の意図に基いてなされたことを認めるに足る証左はない。

更に同日午後六時過頃から同署玄関前附近及び市内数ヶ所に群衆の中から警備隊が配置されて見張りに当り、その中には棒を携え又は石塊を用意し、又、署内に立ち入る者、或いは通行人に対し誰何等の所為に出でた者があつたことは明らかであるが、(証人野沢武蔵、同堀英一、同大河原孝貞丸、同菅野広寿、同大竹武、同平栗好男、同加藤恵二、同斎藤直明の各証言、証人大野友春に対する尋問調書、寺田兼蔵の検察官に対する昭和二十四年七月二十二日附供述調書)群衆がかかる処置をとるに至つたのは、その直前に、内郷町方面の暴力団が日本刀を持つて、平市警察署に集つている群衆を襲撃する旨の情報を伝えた一人の女があり、そのため警察側は内郷町警察署に対しその調査方を連絡したが、群衆としてもこれに対する自衛の態勢をとることとなり、前記の如き配置をなしたものであり、その後内郷町警察署から何等の連絡も齎らされなかつたことのために、群衆の解散に至るまでかかる態勢が維持されていたものである。(証人本田正治、同橋本岩夫、同平田直男、同佐藤進、同緑川佳一、同小泉辰雄、同坂本一の各証言、茂木正吉の検察官に対する昭和二十四年七月十九日附供述調書、朴重根の同月二十六日、同月二十八日附同上調書)

そして、この情報が全然根拠のないものでなかつたことは証人蒲生正利の証言によつて明らかである。

この点に関し証人矢野庫吉、同磯目順孝、同勝沼利雄、同大野友春(同人に対する尋問調書)は平市警察署に対する応援警察官を阻止するための見張りであつた旨証言しており、これをさきに群衆が湯本、内郷両町署に対し平市警察署に応援警察官を派遣することを阻止する行動に出た事実に照らして考えると、或いはかかる目的の下に、或いはかかる目的をも含めて(証人丹保の証言、桜庭尚康の検察官に対する昭和二十四年八月十七日附供述調書によれば、暴力団と応援警察官とに対する見張りとしている)なされたもののごとくみられないでもないが、他面、本田署長が橋本地区署長を通じ国警福島県本部に対し応援警察官派遣の要請をしたのは前認定のごとく午後六時三十分頃であつて右の警備配置はそれよりも前の時刻か或いは同時刻頃とみられ、その頃群衆が応援警察官の動きに関する情報を得ていたこと、又はこれを予期していたと認められる証拠もないこと、又証人渡辺秀夫の証言によれば同証人は平市警察署警戒のため久の浜町署から派遣された四名の同僚と共に制服で午後九時頃平市署に到着し、玄関口から署内に入り群衆をかき分けて同署二階司法室に上つたものであるが、その際客溜り附近で群衆に尋ねられて応援に来た警察官であることを答えたのに拘らず何等妨害を加えられなかつたことが認められること、又橋本地区署長が制服で午後十時過頃同署から地区署に帰る途中常陽銀行前を通つた際、そこの十字路に数名の者が棍棒の様なものを持つて立つていたがこれらの者は何等の行動にも出でなかつたこと(証人橋本岩夫の証言)並びに警備配置の個所が内郷町方面に対し重点的になされていること等の事実と対比すれば前記見張りの配置が警察官に対処する目的を有していたものとは到底認め難く専ら暴力団来襲に対する自衛の措置に出たものと認めざるを得ない。

そして、かかる目的以外に右の措置が群衆が署内において暴行又は脅迫等の行為をなすことを援護するためのものと認められる証左もない。

群衆が署内に立ち入つた上、喧噪に亘る等の行為をなし玄関前の柱に赤旗二本を交叉して掲げ、又見張りのため警備員を配置して署内に立ち入る者又は通行人を誰何している状況を外観的にみれば、恰も群衆が同署を不法に占拠しているかのような観を呈しているが、これを仔細に検討すれば、前認定のような次第であり、群衆がかかる占拠の意思を有していたものとは認められないのである。

第四、法律判断

騒擾罪は、多衆集合して暴行又は脅迫をすることによつて成立するが、その暴行又は脅迫は集合した多衆の共同の意思に出たものであることを要し、いわば多衆の集団そのものの行為と認められる場合でなければならない。

そして本罪が地方の静謐、公共の平和を被害法益とする点から考察すれば、その多衆であるためには一地方における公共の平和、静謐を害するに足る暴行脅迫をなすに適当な多数人であることを要し、その暴行脅迫の程度においても一地方における公共の平和、静謐を害する危険性がある程度のものであることを要するものと解する。

六月三十日湯本町署或いは内郷町署に押しかけた群衆の状況、その行動、これらの行動がなされるに至つた事情及びこれらの行為が平市警察署襲撃の意図計画に基いてなされたものとも或いは平市警察署における、暴行脅迫等の行為を予期してなされたものとも認められないことは、いずれも前認定のとおりであるから右両町署における行為をもつてその相互の間において、又はその後平市警察署において発生した群衆による暴行等の行為との関係においてその準備行為又は一罪の関係に立つものとは認められない。そして湯本町警察署における行為についてみると渡辺巡査部長に罵声を浴せ或いはこれをスクラムで取囲む行為をしたが、同部長の要求によつて右のスクラムは直ちに解かれたのであり、(証人渡辺清憲の証言)その程度は極めて軽微であつて到底騒擾にあたるとはいえない。

又内郷町警察署における行動についてみると、前判示の状況並びに事情に照らし又署長室において署長に対する要求にあたつた鈴木磐夫、佐々木贇が同署平田次席と共に署前における、古口部長に対する暴行を制止し、そのため群衆が暴行を止めたことも認められること(証人古口定吉、同平田直男の証言)からすれば、署長室における強要、古口部長、中塚巡査又は三瓶部長に対する暴行等の所為に出た者相互の間に、共同暴行の意思があつたかは疑わしいのみでなく、その行為の程度において騒擾罪の成立ありとはなし得ない。

次に平市警察署における状況についてみると、検察官は同署に押しかけた群衆による暴行、脅迫等の所為によつて平市警察署の機能が完全に喪失せしめられ又同署及び附近一帯の静謐が害せられたとしている。

同日午後三時三十分頃群衆が同署前に押しかけた後、午後十一時過頃群衆が同署を引上げるに至るまでの間、同署玄関前における群衆の暴行によつて十二名の署員が負傷し、その後群衆が署内に立入り喧噪に亘る行為或いは暴行脅迫等の行為をなす者があつたことは前認定のとおりであつて、かかる点からみれば同警察署の機能に支障を来たしたことは疑がない。しかし群衆によるかかる行為が果して多衆による共同意思によつたものであるかについて検討することを要すると共に、騒擾罪における暴行、脅迫の程度を論ずるに当つて警察機能に支障を与えるに至つた行為があればそれをもつて直ちに地方の静謐を害する惧のある程度のものであると論断することを得ないことも亦当然であり、多衆による暴行又は脅迫行為それ自体が一地方の静謐を害する危険がある程度のものであるか否かを検討しなければならない。

さきに認定したごとく群衆が平市警察署に押しかけるに至つたのは、同署長の措置を不当としこれに対し交渉或いは抗議を為し又はこれを支援するためであつたこと、同日午後三時三十分頃群衆が同署前において暴行をなすに至つたのは偶発的な事情に基くものと認められること、その暴行は僅に数分にして止んだこと、その後群衆が署内に立入るに至つた午後五時三十分頃までの約二時間の群衆の行動は前認定の通りであつて、其の間更に警察官に対し暴行等の所為に出る者もなかつたこと、更に群衆が署内に立入るに至つた事情、その意図についても前認定のとおりであつて不法に同署を占拠し或いは暴行脅迫をなす意図の下に立入つたものとは認められないこと、その後署内等においてなされた暴行等の所為は、これら大多数の群衆の意図とは関連なく、留置場の場合のごとき偶発的に、他は個々的、散発的に、且ついずれも少数の者によつてなされたものと認められること等に徴すると、同署前において一時の昂奮にかられて前記暴行の所為に出たものもその後は本来の意図に基いて行動していることが認められ、警察官に対し引続き暴行等の行為をなす意思を持続していたものとは認め難いし、まして署前の衝突後に同署前に集り来つた者がかかる意思を有していたものとは認め得ない。

従つて、署前においてなされた右暴行等の所為とその後群衆が署内に立入つた後署内においてなされた暴行等の所為とは意思の継続或いは連絡があるものとは認められず夫々別個の法律判断に服するものと解せざるを得ない。

よつて先ず同日午後三時三十分頃同署前においてなされた暴行について検討すると、右暴行は先に認定したごとき事情の下に偶発的になされたものであり、従つて同署前に押しかけた群衆全員に共同暴行の意思があつたものとは認められない。しかし警察官に対する暴行或いは庁舎に対する投石をなした者は四十名前後に達すると認められ、その状況からみれば少くともこれらの行為に出た者の間には共同暴行の意思があつたものと認められる。

しかしながらその服装、持物、その為した暴行の態様、その継続時間、その終熄の状況等諸般の点を綜合して考察し、特に右暴行が前認定の事情による一時の昂奮に出た偶発的なものと認められること、それが僅か数分にして止んだこと、その終熄の状況からみれば昂奮の程度もそれ程強いとは認め難いこと、その行われた場所も同署玄関前の限局された個処に止まりその規模も小さいこと、地方の公安維持に当るべき責任者である本田平市警察署長、橋本平地区警察署長は、当時同署にあつて右暴行の状況を現認しながらこれを制止したに止まり引続き署長室において群衆の代表との交渉に当り、これに対し格別の措置をとらなかつたこと等に徴すると、その状況、程度も自ら窺われるのであつて未だもつて多衆による該地方の静謐を害する危険がある程度の暴行がなされたものとは認め難いところである。

次に群衆が署内に立ち入つた後になされた行為についてみると、署内に立ち入つた群衆中事務室などで労働歌を合唱しこれに和して棒で床を突き、或いは足踏みをして拍子をとり、又群衆に対し交渉状況の報告又は激励演説をなし、これに和して拍手をするなど交渉支援の態度をとり、又事務室、署長室、留置場等において暴行、脅迫或いは器物を損壊するなどの所為に出たものがあつたことは前に認定したとおりである。

しかしながらかかる交渉支援の態度に出た者が右の暴行、脅迫、器物損壊等の所為に出た者と意思を共同にしていたものと認められず、又右の暴行等の所為は留置場における場合においては、偶発的に、その他の場合においては、個々的、散発的になされた行為と認められ、又いずれも署内に滞留していた大多数の群衆の意思とは関連なしに少数の者によつてなされたものと認められることは既に判示したところである。

そして留置場において暴行等がなされるに至つた事情並にその状況は前認定の通りであつて、かかる点からみれば、留置場においてかかる行為に出た者が前記署内事務室等において、個々的、散発的暴行等の所為に出た者とその意思を共同にしていたものとは認め難く、又右散発的暴行の所為に出た者がその相互間において、或いは留置場における暴行等の所為に出た者とその意思を共同にしその所為に出たものとも断じ難いところである。

従つて署内における散発的暴行の所為と留置場における暴行等の所為とは別個の機会に夫々意思の連絡乃至共同がなくしてなされた行為と認めざるを得ない。そして右事務室等において散発的暴行等の所為に出た者或いは留置場内に押入つた十数名をもつていずれも多衆と認めることは困難であると共にそのなした暴行等の程度においても該地方の静謐を害するに足る程度のものとは認め難いところである。

以上認定の通り本件騒擾については、これを認めるに足る証明がないものといわなければならない。

証人中当日の同署における騒ぎを見て不安や脅威を感じた旨証言している者もあるが、これは同署が前記のごとく群衆によつて不法に占拠されているかのような外観に基いたものであることが窺われるのであつて、右の外観がその実体に一致するものでないことは先に認定したところであり、この証言をもつて右の判断を左右するに足る資料とはなし難い。

(被告人の行動)

よつて、被告人の騒擾の点は既に理由のないこと明らかであるが、次に被告人がこれに関与したりとせられる行動についてみると、

被告人が(一)前に認定した如く、前示六月二十九日夜平市大町十八番地日本共産党石城地区委員会事務所において金明福、清野常雄外数名の者と前記掲示板撤去問題に関して協議し、傘下の党員等を動員結集して平市警察署に押かけ多衆の威力を以て同地区委員会側の要求を貫徹する方策をたて、各方部に対する連絡担当者を定めて連絡に当らしめて同志の糾合を図り、これにより多数の党員等が平市警察署に押かけるに至つたこと、(二)同月三十日午後三時頃同市十五丁目朝鮮人連盟浜通支部事務所において金逢琴等と協議の上、平市警察署に赴いた際の群衆の統制のため、その責任者を定め又掲示板問題についての交渉員を選出し、同事務所前に集合した多数の労働組合員、朝鮮人連盟員等に対し掲示板撤去問題について平市警察署に押かけ、団体交渉をなすべき旨並びに吉田内閣の政策等に関する演説をなしたことは前に認定した事実、並びに朴重根の検察官に対する昭和二十四年七月二十八日附及び同年八月十日附供述調書。角田保雄の検察官に対する同年七月二十二日附供述調書により、(三)同日午後四時頃平市警察署に赴き、その頃より以降同署玄関前において集合せる群衆に対し、掲示板問題交渉の情況を報告する傍ら矢郷炭砿馘首問題、これに対する平市警察署の不法弾圧、掲示板問題の経緯等について演説をなしたことは証人柳田藤雄、同大沼智代春、同鈴木亀吉の証言により、これを認めることができる。又(四)その頃から同日午後十一時過頃までの間同署署長室及び二階刑事室において鈴木磐夫外数名の群衆の代表者等と共に、その主導者として平市警察署長本田正治及び平市公安委員等に対し掲示板撤去命令の撤回、群衆中の負傷者に対する慰藉料の支払、本田署長の引責辞職及び解職等を要求したことは前段認定のとおりであり、(五)同日午後五時三十分頃本田署長から許可を受けたから署内に入つてもよい旨連絡員をして署前に集合せる群衆に伝達せしめ、群衆をして署内に立ち入るに至らしめたことはこの点に関する前に認定した事実並びに被告人の当公判廷の供述、被告人の検察官に対する昭和二十五年七月十日附第五回供述調書により、(六)同日午後十一時過頃署内に立ち入つていた群衆を同署玄関前に集合せしめ解散引揚方を指示したことは証人東務の証言、被告人の前記供述調書、熊田豊次の検察官に対する昭和二十四年七月十六日附供述調書によりいずれもこれを認めることができる。

然しながら前判示により明らかなとおり被告人の右(一)(二)の所為を以て騒擾の謀議計画或いは暴行等を予期してなされたものとは認め得ないところであり、(三)乃至(六)の所為はいずれも前示署前においてなされた暴行後の行動であり該暴行に関係あるものとは認め難く、又その後に行われた前示暴行脅迫を共にし或いは支援する趣旨でなされたものであること、その他被告人が右暴行脅迫に関与したことはこれを確認し得る証拠がない。結局いずれの点より見るも騒擾の罪についてはその証明がないものといわなければならない。

次に職務強要の点について考えるに、被告人が同日午後四時頃から同十一時過頃までの間、同署長室及び二階刑事室において群衆の代表者として署長並びに公安委員等に対し、掲示板撤去命令の撤回、負傷者に対する慰藉料の支払、署長の辞職及び解職等の要求をなし、代表者中主としてその折衝に当つたものであること、及び同日午後八時過頃他の代表者等と共に本田署長に対し前記利川鎮吾の釈放を要求し、語気鋭く同人を留置した措置を難詰したことは前に認定した事実並びに証人本田正治、同伊藤徳雄、同橋本岩夫、同山崎与三郎の各証言によつてこれを認め得るけれども、被告人がその交渉中他の代表者等と共に交々暴言及び脅迫的言辞を弄したことはこれを認めるに足る証拠が十分でないのみならず、却つて証人山崎与三郎、同後藤一六の各証言によれば、被告人には乱暴な言動なく、その態度も穏健であつたことが窺えるのである。ただ右利川鎮吾の釈放を要求した際は被告人も非常に昂奮していたことは明らかであるが、(被告人の検察官に対する昭和二十五年七月十日附第五回供述調書)被告人自ら危害を加うべき旨の脅迫をなしたことはこれを認めるに足る証拠はない。もつとも前記各要求をなした際の署長室における雰囲気は、同日夕刻過頃には代表者の外多数の労働者が立ち入つており、これらの者の中には交渉中の署長並びに公安委員に対し、時に悪口雑言を浴びせ、或いは脅迫的言動をなす者があり、隣接する事務室にも多数の群衆が立ち入つて喧噪に亘る行為をなす者があり、時に暴行等の所為に出た者もある等前判示の如き状況にあつたのであるから、到底通常の交渉乃至は社会通念上是認せられる抗議の在り方であつたということはできないのであつて、時に相手方をして応待の如何によつてはその身体、自由等に対する安全を保し難いかも知れないとの恐怖の念を生ぜしめるに足る程度のものがあつたことはこれを推察するに難くない。(特に証人本田正治、同橋本岩夫、同伊藤徳雄の各証言中、いつ暴行を受けるかも知れないと感じていた旨の各供述部分)そして被告人等代表者はかかる状況下において右の要求をなしていたのであるが、証人大野友春に対する尋問調書によれば、被告人等代表者は署長室に立ち入つた労働者等が署長等に対して悪口暴言を浴びせ或いは脅迫的言辞を弄するのを極力制止していたことが認められるのであつて、これを前記矢吹公安委員に対し火箸を振り上げて脅迫を加えた者があつた際における被告人等代表者の制止をなした態度、(証人本田正治、同伊藤徳雄、同矢吹大一郎の各証言)代表者或いは群衆中の幹部の者等が群衆に対し暴力的行動を制止する態度に出、或いはその趣旨の演説をなしていたこと、(証人後藤一六、同鈴木信昌の各証言)その他多数の新聞記者等が署長室において交渉の状況を傍聴していた事実(証人小林清、同大塚正勝、同桑島茂光、同小泉辰雄、同斎藤敏雄、同後藤一六の各証言)等と併せて考えると署長室における交渉は前示の如く時に悪口雑言或いは脅迫的言動がなされた場合の外は代表者達により概ね平静に話合いがなされていたことも亦窺えるのであり、殊に被告人の態度は前記のとおりであつて、被告人において前記のような不法な威力を利用して脅迫を加えていたものとは認め難い。前に認定した如く被告人が群衆を動員して平市警察署に押かけるに至らしめたのは多衆の威力を以て要求を貫徹することを企図したためであることは明らかであるが、群衆が同署において暴行、脅迫をなすことを予期し、或いはかかる不法な勢威を利用する意図に出たものと認め難いことも前に判示したところであるから、右の如き企図に出たことをもつて直ちに被告人が多衆の威力を示して脅迫する意思を有していたものと断定する資料とはなし難く、他に被告人がかかる脅迫意思を有していたことを確認し得る証拠はない。従つて被告人の職務強要の点についても、その犯罪の証明がないものといわなければならない。

よつて刑事訴訟法第三百三十六条に則り無罪の言渡しをなすべきものとする。

(裁判長裁判官 山田瑞夫 裁判官 恒次重義 裁判官 羽染徳次)

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